2005年度活動報告

NO.3

原爆と差別  地獄の中から生きて
         極限の中での部落と朝鮮人に対する差別
   ―あの地獄のなかで人間としてのやさしさを忘れなかった人たち―

市民集会写真

広島県から下原隆資(たかし)さんに講演に来て頂きました。

人権センターながのが企画依頼され取り組まれた11月17日の中野市差別をなくす市民集会、 18日木島平村差別をなくす村民集会と12月10には東御市人権尊重のまちづくり市民の集い。

下原さんは15歳の時に爆心地より1.5qで被爆。 1.5qといえば人間がとける状況。 その時の状況を一つひとつ語ってくれました。

1945年8月6日朝、一緒にいた友人が「B29が・・・落下・・」その言葉を最後に・・・。 身動きできない自分のからだを何とか動かし、声を出そうとしたが声がでない、出たのは口の中から肉が。 顔が裂けていました。 服を手で引き裂き炎の中をはいずり出ました。 「その瞬間に友人の事を忘れ・・・一生私が背負っていかなければならないこと」。 (こんな表現では伝えきれない下原さんの体験が続いていきます

それから数キロ離れた工場へ向かいました。 その工場にいた友人数人が、強引に医者にかけあい、2針だけ縫ってもらいました。 その工場の病院は負傷者でいっぱいに。 廊下にも大勢の人が寝ていました。 翌日あまりにも静かなので声をかけても誰も返事をしてくれないのです。 実は全員が死んでいました。

下原さんは、焼け野原で死体の山となったうえを裸足で歩き続けたことも話されました。 このことは「数年前まで言えなかった」ということです。

数日後父親に発見され、生まれ育った島にたどりつきます。 被爆した自分を看病してくれる母親。 (後でわかったことですが、あの時手術をしていたら死んでいたそうです。 放射能で白血球が減少していたからです。 )それから島では数人の友人と毎日集まって、(「どうせ死ぬんだからろくな事はしませんでしたが」)まず、みんなで裸になるんです。 紫色のはんてんができていれば、その日に死ぬのです。 はんてんがないのを確認してその日は遊ぶのです。 夕方また裸になって、なければ「また明日ここに集まろう」と、そんな毎日を送っていました。 死ぬことは覚悟していました。

原爆は爆心地からの被爆距離で死亡率がだいたい平均しているのです。 しかし、なぜか部落と朝鮮人の死亡率が高いのです。

原爆、この極限の中でも差別は生きていたのです。 「部落と朝鮮人は何をするかわからない」という意識により、人々が逃げまどうなか、軍隊が被差別部落の出入り口をかため、許可なくそこから出ることを禁じたのです。 そして部落の死亡率は他に比べて高いのです。 言葉で朝鮮人はわかります。 負傷していてもほとんどの医者は診てくれないのです。 他の人から追い出されるのです。 また、当時子どもたちの疎開に関しても「部落と朝鮮人の子どもはよこさないように」という指令が学校にあり、この地区の部落の子どものほとんどが全滅しています。 被爆後助けを求めて他地域に行っても、「どこから来た」と聞かれ、その日または翌日までに燃えさかるなかに戻っているのです。 但し、嘘をついて部落でない地区を名のった人はそこにおいてもらっているのです。 (のちに下原さんたちが聞き取り調査を行う)

皆さんに知っておいてほしいことがあります。

何万もの死体の山、その死体を焼くために焼く人たちが来たのです。 死体を集め重油をかけて焼くのです。 しかし部落へは誰も来てくれなかったのです。 当然部落の中にも他から逃げてきてそこで死んでいった大勢の人たちの死体がありました。 部落の人たちはその遺体を一人ひとり焼いて、着ているものに名前が書かれたいることから、誰の遺骨かわかるようにして、 のちに平和記念公園に2千余の遺骨を部落の地区から納骨しているのです。

後に聞き取りをしたところ、「わしらは差別されその苦しみをよく知っている。 ここで死んでいった人たちも人間だ。 粗末になんかあつかえない。」

あの地獄の中で人間としてのやさしさを忘れなかった人がいるのです。

「私は今も生かされています」と下原さん。 是非多くの人たちに聞いてほしいと思っています。 「この間まで具合が悪かったが、最近また話をすることで皆さんから元気をもらっているようです」と言われていました。

下原さんの話は、被爆体験のみならず、戦争とはを問いかけるものです。 「日本は降伏しなかったから原爆が使われたのではない、つくった原爆を試すため。 戦争とは人を殺すこと、それが戦争」と原爆を投下したアメリカ軍関係者と、のちに何回か会って聞き取った内容など、 私たちが今まで知り得てきた内容とははるかに違った事実を話してくれました。

プロフィール

広島県生まれ、1945年、15歳のとき爆心地より1,5qの屋内で被爆。
その後、中学校・小学校教員として人権・平和教育に取り組む。 87年に退職。
広島県同和教育研究協議会専従、部落解放同盟広島県連合会副委員長などをつとめ
現在、原水爆禁止広島県協議会常任理事。

長野市吉田地区人権セミナー
     江戸の被差別民衆・浅草弾左衛門の役割と信濃

人権セミナー写真1 人権セミナー写真2

10月23日、長野市吉田地区人権セミナーを吉田公民館(ノルテ長野)で行われ、集会の企画運営を行いました。

主催は部落解放同盟長野市協議会吉田支部。 吉田地域から80人が参加されました。

(社)東京部落解放研究所の浦本誉至史さんから映像を使って「江戸の被差別民衆・浅草弾左衛門の役割と信濃」と題して講演がされました。

江戸時代13代つづいた長吏頭「浅草弾左衛門」、関東・江戸の被差別民を支配するとともに、 その支配下にあった被差別民、長吏・非人・猿飼・乞胸(ごうむね)と江戸の町政にも大きな役割をもっていたという関係について話がされました。

その中で非人社会について次のような話がありました。

当時既に世界最大の近世都市であった江戸は、一方で一切の社会政策を欠いた都市でもありました。 大都市江戸では、膨大な野非人や世話人のない高齢者・病人・少年・障害者が日常的に発生しました。 これらの人々(「都市窮民」)は、そのままほって置かれれば、死んでいくよりない存在です。 もし何らかのセーフティーネットがなければ、江戸は膨大な死者の群で埋まったか、または社会不安が常に増大して、あっという間に都市としての機能を停止したでしょう。

しかし実際の江戸の町では、大飢饉・大火事・疫病の流行時などを除いて、そのようなことは起こりませんでした。 なぜ江戸は、都市としての機能を停止しなかったでしょうか? 江戸には、「都市窮民」自身が作った自治的な社会、非人社会があったからです。 そこでは各非人頭を中心に、自分たちの稼業と役割を持って「都市窮民」が生活を送ることが可能でした。 自治的な非人社会が都市にとって必要だった。 だからこそ江戸は、町方全体で非人社会が成り立つ措置も講じるようになったと言えます。

こうした被差別民の「自治機構」のトップにいた弾左衛門たちは、幕府崩壊が決定的となったとき、長年の悲願実現のため活動を始めました。 支配下の全被差別民の身分解放を求める政治工作でした。 また新時代に生き抜くために、皮革産業近代化にむけて投資を行い、米国人技師の招聘、近代的靴工場・学校の建設なども行っていることが示されました。

集会後多くの参加者から「題名に興味はなかったが、聴いてみて、知らなかった、よかった」という感想を聞きました。

さらに、当日の話の中で浦本さんから、連続差別ハガキ事件の犯人が捕まり、その後の状況にもふれていただきました。 このセミナーをまたどこかで企画できたらと考えています。

出版・人権差別問題懇話会が現地研修
     ―22社37人が参加―

現地研修写真

10月18・19日と、出版・人権差別問題懇話会(代表幹事社・文藝春秋)が、長野県内の被差別部落現地研修を行い、22社から37人が参加されました。 事務局の解放出版社からの要請で人権センターながのとして受け入れました。

一日目は「善光寺と被差別民」という観点で長野市内をフィールドワーク。

中世の被差別民、善光寺との関係、宗教などの観点で人権センターながのスタッフの井上英実さんに説明をして頂きました。 (ありがとう井上さん。 その後、長野市川田の地区共闘会議からも是非ということでお願いがあったり、これからかなり重要なポイントになるような気がします)

2日目は小諸市内の部落を視察しました。

県内最大の部落の実態、長野県水平社の重要な地、島崎藤村「破戒」と部落という観点で学習がされました。 なかでも、「破戒」をどう評価するかではなく、実際に本をもって「破戒」に記されている部落に「あたかも観光のように」訪れる人たちの現実や、 藤村が以後一度も訪れていない事実などを通して、部落の人たちが藤村・「破戒」をどう受け止めているか、「その現実がわかったような気がします」と参加者が感想を言っていました。

正直、「出版関係者・・・つきあい程度で現地に来るのだろう」と半分思っていましたが、なんとも真剣な研修でした。 びっくり、いや当然なんでしょうね。

「私が出逢った唄たち」
   新谷のり子さん コンサート

コンサート写真

 10月14日上越市で行われた“お坊さんとゆかいな仲間たち”主催の新谷さんのコンサート。 縁があって係わりも持たせていただきました。

「私が出逢った唄たち」、一段とパワーアップした新谷さんのこころが伝わりました。

新谷さんが出逢ってきた人たち、その語りと唄。 伝えたいことが明確です。

そして新谷さん「今年の9・11、この日は日本にとって、世界にとっても大変な日になる予感がします。 再び戦争への足音が聞こえるようです」と話されました。

コンサート終了後、久し振りに新谷さんにお会いしました。 「10年ぶりですね」「私結婚したのよ」と新谷さん。 (あ、こんなところで明かしてよかったっけ)ますますステキになりました。 ぜひ長野県内で新谷さんのコンサートをやってみたいと思っています。 皆さんも、計画がありましたら声をかけて頂けないでしょうか。

「いつでも来て下さい。 いつでもよんで下さい」丸山多嘉男さん

  栗生楽泉園へ行ってきました

視察研修写真

10月25日、長野市人権政策確立要求実行委員会の視察研修に同行させてもらって、丸山多嘉男さんがいらっしゃる「栗生楽泉園」に行ってきました。 草津の街中からバスで20分くらい山道を行くと、広大な敷地の栗生楽泉園があります。

丸山さんがいつものように冗談をいいながら「トトロのねえちゃん!」と出迎えてくれました。 苦労と苦難の中で培われたこの明るさに私はつい甘えてしまいます。

部落解放同盟群馬県連の藤本義男さんから「草津温泉の湯の花と長吏」、丸山さんから、ご自身のおいたちについてお聞きしたあと、丸山さんの案内で、園内をフィールドワークさせてもらいましした。

「来てみないとわからないこといっぱいあるよ」との言葉どおり、この広さや、斜面は実際歩いてみないとわからないと思いました。 供養塔の前では、改めて、骨になってもふるさとへ帰れなかった人たちの無念を考えると、胸がつぶれる思いがしました。

一番多くの入所者がいたときには1300人、いまは230人。 この人たちを「ふるさとへ帰したい」の思いを強くしました。

私たちのバスが見えなくなるまで手を振って送ってくれた丸山さんの姿。 ジョークをたやさない丸山さんの話。 「いつでも来て下さい。 いつでもよんで下さい」と言う丸山さん。

この出会いがひろがっていけたらと思っています。 多くの皆さんに丸山さんを紹介しようと思います。 ぜひ声をかけて下さい。

ご協力ありがとうございました 第31回長野県部落解放子ども会大会

子ども会大会写真

10月15日、長野市松代小学校で、第31回長野県部落解放子ども会大会が開催され220人が参加しました。 大会の運営協力を会員の皆様にも呼びかけ、ご協力をいただきました。 大変ありがとうございました。

小学校低学年は、工作・遊び・映画上映などで交流。 小学校高学年・中学生は、午前中、全体会をおこない、宮沢勉(元解放同盟県連副委員長)さんが、戦争時の教科書の内容や長野空襲など自らの体験を語りました。 また青年たちによるロックバンドの演奏と歌。 東御市解放子ども会から、全国子ども会集会への参加を通しての発表。 高校生からは、被差別体験を通して部落差別の現状が訴えられました。

午後からは、フィールドワークをおこない、追悼碑を守る会の原山茂夫さんの案内による象山地下壕や、松代西条集会所では、行政区における部落差別の実態を学びました。

情 報
部落解放同盟と部落解放推進の会が統一集会

統一集会写真

27年間の歳月を経てついに統一が決まりました。

部落解放同盟長野県連合会と部落解放推進の会長野県本部が、12月11日、長野市内で組織統一集会を開催しました。 両組織会員200人がこの日の集会に参加し様々な困難を乗り越え、同じ目的に向かって進んでいくことを確認しました。 最終的には来年春のそれぞれの定期大会で正式なスタートとなります。

《訃報》

木曽秀豊さんが2005年12月4日お亡くなりになりました。 80才でした。

木曽さんは中学教師として、「同和教育」の初期からかかわり、しんどい子どもたちや親たちと共に歩んで来られたその実践は、いまも多くの人たちによって引き継がれています。

そして退職されたあとに出版された「たどり来しわが歩みのあとを」の一つひとつの実践は、今日でも色あせることなく輝いています。

葬儀は2006年3月25日(予定)です。

ぜひ皆さんに伝えたい(伝えなければならない)内容です

        京都教育大学教員の外川正明さんからのメール

          外川さんにとどいた大阪・日の出の谷川さんから

いつも外川さんからメールをいただいています。 そのなかに、大阪・日の出の谷川さんからのメールを読んで、どうしても会員の皆様に伝えなければならない内容だと思い、 谷川さん(そして本人たち)の了解を得ながら、掲載します。

全国人権・同和教育研究大会にご参加の、本メーリングリスト登録されています皆様、2泊3日の間、お疲れ様でした。

また色んな出会い、そして出会いだけじゃなく「つながり」になる交流会、たいへん楽しかったです。 そして、またまた暴言に近い言い方で叫んでしまいまして、たいへん申し訳ありませんでした。

いきなりですが、僕が関わっている子ども達の声は、横に立たないと聞こえないような小さい声です。 後ろにいては聞こえない、前にいても向き合っていなければ聞こえない。 面と向かわれては言いにくい、そんな子ども達の心情から、横に立つ事を選択し、様々な相談に乗ってきました。

交流会では、小学校低学年の頃、友人宅に遊びに行った際に、友人の親から「アンタ部落の子やろ?2度と遊びに来るな」と平手打ちをされ、近隣地域に「この子は部落の子です。 子ども達の安全のために注意してください」という内容のビラをまかれ、顔写真と電話番号を載せられていたことから、 想像を絶する(内容は伏せます)悲惨な差別を受けてきた女の子の話をしました。

彼女はシンナーとドラッグに走り、苦しみ続けて21歳でやっと僕に相談する事になりました。 医療につなげて、MRIで脳の断面図を撮影したところ、彼女の脳は溶けて小さくなっていました。 21歳にして60歳の脳と同じ大きさの脳で、これからの人生を「依存症」との闘いに費やすわけです。 少し安定してきましたが、適切な医療が大阪に無いため、奈良と横浜の病院に行ったり来たり。 彼女の日常は、中毒症状との闘いと、趣味である『詩を作る』事でいっぱいです。 彼女は部落差別の末に、こんな日常を過ごしていくことを余儀なくされた犠牲者ではないでしょうか。

彼女がドラッグに走ったキッカケは、勇気を振り絞って相談した学校の教員の「お前太ってるやろ?ブタとエタを聞き間違えたんじゃないか?」という、劣悪な差別発言でした。

僕は全同教に参加するにあたって、彼女に「今から全国の教員が集まる大会に行って来るよ」という内容のメールを送りました。 すると、「栄ちゃん、私の事言ってきてくれへん?私がどれだけ苦しんだか、先生達に教えてあげてくれへん?私みたいな人間を2度と生まないために、 先生達にしっかり考えて欲しいねん」という返事が返ってきました。 だから交流会でも、分科会(三重県の皆さん、すみませんでした…)でも発言させてもらいました。 全国の熱い思いを持った先生達に、横に立たないと聞こえないこの子の声を届けたかった。 届けなければならなかった。 全同教から「同」の字を抜いた時、こいつらの声を聞いてくれる人達は確実に減る。 それだけは阻止しなければ、僕だけではどうしようもない。 そういう切迫した気持ちでのぞんだ全同教だったとご理解ください。

帰ってからすぐに彼女にメールを打ちました。 「伝えてきたよ。 150人がおまえの味方やで」。 彼女は電話をくれました。 泣きじゃくっていました。 そして、またいつものドラッグ依存との闘い、被差別の傷の回復につとめているわけです。 やるせないですよね。 差別は、僕の伯父のささいな夢を潰し、友人の命を奪い、子ども達の心さえも平気で踏み潰す。 「差別が表面化しなくなって、見えにくい世の中だ」って本当ですか?単に差別を受けても人に言えない子ども達、大人たちが増えただけじゃないでしょうか。 ネット差別もあるでしょう。 社会システムに差別の構図があるのもわかります。 子ども達は「具体的に差別を受けた」と相談してきています。

被害を受けた子ども達は、横に立たなければ聞こえない声で、「助けて!こっち見て!苦しいよ!」と叫んでいるんです。 僕の受けている相談の内訳は、700人中、200人が人権相談です。 子ども達に「もう大丈夫や。 俺がついてる」と言い続け、ともに笑い、時に泣き、それでも一緒に歩んできた4年の歳月で、一つだけ学んだ事があります。 子ども達は「自分」を見てほしいだけじゃない。 一緒に語り合いたいんだって事です。 たくさん話してください。 たくさん聞いてやってください。 そうすりゃきっとたくさん笑顔が返ってきます。 大人の優しい言葉を、子ども達が待っているんだってやっとわかりました。

長い文章になりましたが、宮崎県の方が「地区はあるが差別はない」と言った事と、事務局(?)で頑張っていた、 外川さんが肩を抱いて涙ながらに語ってくれていた青年の思いは別のものですよね。 僕は「地区はあるが差別はない」と言った人に一言言いたいだけで、頑張って段取りをしてくれていた青年を敵視して言ったわけじゃない。 むしろ感謝しています。 だって僕が紹介しました苦しんでいる女の子に150人の味方がついたのは、宮崎県で行われた全同教、交流会なくしては語れないからです。 本当にたくさんのつながり、有難うございました。 場所は違えど皆さんともに闘いましょう。 そしてともに生きていきましょう。

◆僕が分科会と交流会で紹介した女の子2人から、メールが届きました。 そのままコピーペーストします。 Aさんはドラッグの後遺症から、右手が震えてメールを打ちにくいのですが、しっかりと書いて送ってくれました。 Sさんは対人恐怖症になっていますが、少しずつ心を開いてきてくれています。 ぜひ思いを汲んでやってください。 メールは下記の通りです。

<大阪府Aさん>

私、治療が終わったら、その先生達に会いたい。 この目で信じれる教員がいるって見てみたい。 私はもう一人じゃないけど、色んな暖かい大人に傷つけられずに育ちたい。 私の脳は60歳だってお医者さんが言ってたけど、心は12歳なんだって。 だからかなぁ。 子どもみたいな夢やけど、いっぱい先生から褒められたい。 「よう頑張ったね」って言ってくれる人150人もおったら、私絶対差別に負けへんかったって思う。 早く治して会いたいよ。 栄ちゃん、連れてってね。

<奈良県Sさん>

教師なんて今でも信じられない。 。 。 ゴメンね。 。 。 私は先生に傷つけられて、ウリするようになった人間だから時間かかると思う。 私みたいな傷つく子を増やして欲しくないから、栄ちゃんに私の事言ってって頼んだん。 それに150人も応えてくれるなんて信じることができん。

でも、栄ちゃんが見せてくれたメールの中は熱かった。 温かかった。 まだ教師には会いたくないけど、脇から見てみたい気はするよ。 でもやっぱり「部落差別は無い」なんて、私の前で言われたら2度と立ち直れないだろうから行きたくないなぁ。 。 。 ホントにゴメンね。 でもいっぱい言ってくれたんだってわかったから、私も少しは役に立てたかな?って思います。 私みたいな汚れた人間でも、誰かの役に立ちたいなぁ。

◆皆さんの汗がこういう子ども達を支え、皆さんの声がこういう子ども達に響いているんだって事ご理解ください。 僕は彼女らの「今現在」に寄り添い、必ず高校卒業資格を取らせてやりたいって思っています。 それが彼女らの願いですから。

「ウリをやっている女の子達がどんな格好で夜の街を徘徊しているか知っていますか?学校の制服ですよ!」と分科会で怒鳴りました私ですが、 時々面会に行く時、彼女らはどういうわけか制服を着てお出迎えしてくれます。 よほど学校に行きたいのか、卒業したいのか、真意はわかりませんが、汲み取れる気がします。

◆もう既に頑張っているメーリングリストの皆さん、これ以上がんばれなんて言えません。 自分の関われる範囲の中で、どうかこういう子ども達の横に立って、か細い声を拾ってやってください。 僕もこぼさないよう、できる事を最大限やって踏ん張ります。

同和教育は、こういったしんどい子ども達に寄り添い、一人を大切に、それを皆に向け、一人もこぼさないためにある教育だと思っています。 地域の兄ちゃんが、教員資格を持たないでこうやって踏ん張ってるってこと、そして子ども達が本当は先生達に褒められたいって思ってるってこと、 大人を信じたいって思ってるってこと、どうか汲んでやってください。 相変わらずの長文で申し訳ありません。


ちょっと一言 

       事務局人間模様

会員の皆様いつもありがとう。 この通信を読んで多くの方からご意見をいただいています。 だけど決まってこのコーナーについてなんです。 なかには「次早く出してよ」などありがたい「期待」を寄せて頂いています。 ところで当の主人公、「やだー」と言いながらけっこう喜んでいます。 そんなところに“ある高校生”からラブレターをいただきました。 開けてみると「抗議」の投稿。 「そのまま全文のせるのなら」と了解を得て掲載 します。

“ある高校生”実は彼女の娘(高校3年生)からです。

☆プチ投稿

人権センターの「ちょっと一言」のコーナーに言ってやりたいことがある。
うちの〇〇のことをエラく勘違いしているようだが、〇〇はあんな人ではない。
〇〇の本当の姿はあんなものじゃない なめてもらっては困る。

これは先日、ある動物病院でのこと・・・。
 うちの犬(プーちゃん)のツメがのびていたので、切ってもらうことになった。
 暴れ出すプーちゃん。 そこで〇〇が押さえつけることにしたのですが・・・
 そこで事件は起きる。 しばらくすると、プーちゃんの表情がおかしいことに気がつ いて先生が〇〇に声をかけた。
   先生「お母さん、お母さん。 息してませんよ 」と慌てる先生。
   ところが〇〇は・・・「え? 私、息してますけど?」
              ちーん    (間。 )
   先生「・・・いや、ワンちゃんが お母さん首しめてます
 うちのかわいいプーちゃんを窒息死させるところだったのだ。 いや、はや。

〇〇のすごいのはコレだけではない。 こんなことをしておいて、その後も平気にその病院に通えるのだ。 どんだけ太い神経をしているのかそれは体を見れば一目瞭然なのだが、あまりにスゴいため、家族ですら手におえない。

そんな〇〇を一言で片づけるのは不可能だ。 〇〇が見たければ人権センターに行きなさい。 一言では表せない、そんな世にも珍しい生物を体感できるはずだ。

そして何回か体感するうちに、あなたも〇〇のようになるだろう。
 そう、とある事務局長のように―。
                       (原文の〇〇には、イラスト付き)