2006年度活動報告

NO.1

≪2006年度 スタートにあたり≫

      人権を取り戻すために連帯を請う

                代表理事  中山 英一 中山代表写真

現代社会は、弱肉強食の市場原理主義が機能している。 これは必然的に過当競争を生む。 そして人間の対立を齎(もたら)す。 対立は衝突へ轉化し、差別を派生する。 その結果、格差社会を現出する。 格差とは、身分・地位・条件などによる差別である。

「差別」「人権」について、日常は自己に無関係(他人ごと)と思い込んでいる人は案外多い。 しかし私たちは差別社会の中で毎日生活しているのである。 ただそのことに気付かないでいる。 差別は主観ではなく客観である。 私たちは差別の当事者である。

元来、差別は不当・罪悪・邪道である。 そして加差別者も被差別者も共に犠牲者である。

そもそも「差別とは何か」について、私の体験、学習、研究などを通して得た見解を、行為の面から要約し、仮説として参考に述べる。 差別とは@人を侮辱(無価値)する。 A人を排除(仲間外し)する。 B人を虐待(いじめる)する。 事である。

1965年、同和対策審議会は、内閣総理大臣に対して「同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、 日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である。」と答申した。 これは現代「同和問題」に関する大原則である。

“NPO(特定非営利活動法人)人権センターながの”は、2003年8月10日、長野市で創立した。 「私たちの活動は、歴史、社会、経済、法律、文化、教育、運動に関する調査、研究、並びに教育、啓発活動を実施するとともに、 会員相互の研修や、人権確立に向けた県民の意識向上をはかり『差別をなくしたい』という共通の願いに共鳴する人と人とのつながりを誇りに、 さらに一人ひとりが創造し、実践し、つながっていくために」を趣旨に発足した。

以来、会員の固い連帯と奉仕活動によって、漸次成果を挙げてきた。 最近は明るい展望が持てるようになった。 これは偏に会員の日常的ご協力の賜物である。 改めて深謝申し上げる次第である。

あらゆる差別を撤廃し、天賦人権を取り戻すために、引き続き会員の知恵と情熱と行動力を是非賜りたく切願する。 人権を取り戻す営為は、崇高な価値と、自他共に有益な哲学である。 力を結集して精進を請い、誓う。

2006年度人権センターながの通常総会

   やってみよう! 今年は“創る”です

4月30日(日)、人権センターながの2006年度通常総会を長野市中央隣保館で開催しました。

2003年の夏にスタートして3年。 出会いとつながりがより広がり、その中身も深められてきたように感じます。 おかげさまで忙しさも増し、必死で毎日をこなすだけになっていた時期も多かったように思います。

初めて取り組んだものも多く、常に走りながら考えてきました。

特に昨年度の活動の中で、人権センターながのが受託して長野県で初めて専門家による分析・考察まで取り組んだ「中高地区の意識・実態調査」では、 「若年者に部落に対する差別意識が強い」などという一面が出ました。 また「市町村『職員採用にかかわる受験申込書』調査」では、本来、企業に対して指導的立場である市町村が、職員採用にあたり、 人権を侵害する個人情報を集めていたり、一方、こうした人権侵害に「おかしい」という声が起こってこない現状など、今まで行われてきた人権行政は何であったのか、 教育や啓発は何であったのか、私たちの取組は何が課題なのか改めて根本的に見直していく必要性を感じました。

ハンセン病回復者の丸山さんや、広島の被爆者である下原さんたち差別と迫害、多くの苦難を乗り越えてこられた方々に出会わせてもらいました。 より多くの方々へ事実・現実・思いを伝え、一人ひとりつながっていけたらと思います。

本年は自分たち自身で皆さんに発信していくものを創っていこうと、啓発・研修ビデオ制作に取り組んで行く予定です。 撮りたいテーマ、構想はいっぱいあります。 皆さんのご協力をお願いしたいと思います。

さらに、昨年同様、独自のセミナーも開催していく予定です。 第1弾は『部落史1日セミナー』―授業・教科書と部落史の観点から―を斎藤洋一さんから講義していただきます。 一度斎藤先生の講義を一日通しで聴いてみたいという、会員のたっての願いで計画しました。

皆さんからの企画持ち込みもお待ちしています。

また、教育部会では、「同和教育実践報告集」を作成し、各地で実践検討会を開催していく予定です。

カムイモシリ(神の世界)に旅立った萱野さんに届けば

朝日新聞企画報道部「声」編集の田中洋一さんからメールをいただきました。

アイヌ民族の萱野茂さんがお亡くなりになりました。

カムイモシリ(神の世界)に旅立った萱野さんに届けばと念じて書かれた田中さんの文です。 是非皆さんにお伝えしたいと思い、田中さんに了解を得て掲載しました。

田中さんは数年前まで朝日新聞佐久支局におられ、様々な角度から差別問題を提起してきた人です。 気がつくといつも被差別当事者の「横に座って」話を聞き、毎回の部落史調査委員会の資料整理作業にもいつしか田中さんがいることがあたりまえになるなど、 彼自身の信念とスタイルが自然と伝わる、今思えばなんとも不思議な人です。

萱野さんが長野県に来られたのは十年前、「部落解放研究集会で話をしてほしいのですが」というお願いに、快く応えてくれました。 穏やかな言葉の中にある民族の誇り、鋭い視点での問題提起は今も心にのこっています。

       萱野茂二風谷(にぶたに)アイヌ資料館前館長
       萱野 茂(かやの・しげる)さん惜別
  逃避から一転、民族文化を体現
           2006年5月6日死去(急性肺炎)79歳、5月12日葬儀

初めてお会いした34年前の第一印象が忘れられない。 彫りが深く、日本人離れした顔立ちに、「日本語は話せるのかしら」と学生時代の私は戸惑う。 その夏、地元の北海道平取町に開設した直後の二風谷アイヌ文化資料館(上記肩書きの資料館の前身)を手伝う。 展示品の多くが真新しく木肌も鮮やかなのに驚いた。 何人も乗れる丸木舟から、儀式に欠かせないパスイ(捧酒箸)まで、萱野さんや妻れい子さんが伝統に則って彫り、編んだものだからだ。

「アイヌは山で鹿を狩ったら独り占めにしない。 キツネの分は雪の上に置き、カラスの分は枝に掛け、残しておくものだ」。 現代にも通じる精神が心に染みた。

この人にもアイヌであることから逃避しようとした青年時代があったと知り、意外だった。 山仕事から帰宅した20代後半の茂青年は、父親が大切にしていた儀式用のパスイが和人学者に持ち去られたと知る。 調査に名を借りた採血や写真撮影、そして頭骨収集の墓荒しさえアイヌ民族に付きまとった。

「このままでは自分たちの文化は何もなくなってしまう」。 反発で、それまで秘めていた民族意識が高まり、民具収集やアイヌ語採録の活動を産み出した。

祖母てかってさん(1945年没)は囲炉裏端に座り、アイヌ語でカムイユカラ<注>(神謡)やウウェペケレ<注>(昔話)をよく聞かせてくれた。 でも萱野さんは母語の素地があるだけでアイヌ語を駆使できるようになった訳ではない。

「独学、自習した。 いったんは捨てようとしたアイヌ語との格闘だった」。 40年間の付き合いから、いわば共同作業で「アイヌの結婚式」など記録映画9作品を編んだ民族文化映像研究所の姫田忠義さんは振り返る。 ウウェペケレ<注>の逐語訳を二人で検討していたら、「獲物がたくさん捕れる」というアイヌ語の元々の意味に萱野さんが思い至り、うめいたこともある。

明治20年代生まれの父親が同世代の隣人と「先に死んだ方が幸せだ」とこぼしていたという

話は身につまされる。 同化政策の影響で、神の世界にたどり着くために必要なアイヌ語の引導渡しを出来る人がいなくなったからだ。

萱野さんは郷土の先輩、貝澤正さんたちの引導渡しをしたが、自身の葬儀は盛大な仏式で営まれた。 焼香の列の後尾でアイヌ民族衣装の男性が、アイヌ語で遺影に別れを告げている光景を、私は脳裏に刻みつけた。

注:カムイユカラの「ラ」とウウェペケレの「レ」はどちらも母音を伴わない発音で、「萱野茂のアイヌ語辞典」(三省堂)は小文字で表記している。

                         (2006年6月3日、田中洋一)

障害者自立支援法の問題点

まず、いままで特別なことをのぞいては、生活介護や支援は国、県、市町村の分担によって障害者や病気の人たちの介護負担はありませんでした。

ところがこの2006年4月1日から施行された「障害者自立支援法」は障害者全体に介護料の1割負担を強いるものです。 生活保護者以外は3段階に分け、15,000円、22,600円、33,700円の限度額を決められています。 障害者基礎年金は毎年0.3%ずつ下がり続けています。

こんな現状でさらに障害者の移動手段が、レスパイトをのぞいて全てタクシーの半額の自己負担を強いられ、 少し長い距離を乗ると8,000円、10,000円とお金がかかり、移動にお金をかけると生活が成り立ちません。

従って今まで使っていた介護のヘルパーも使うことを減らし、病院にも思うように通えないのが現状です。

特に知的障害者にとっては、親の経済的なバックアップがなければ全くと言っていいほど移動の手段は絶たれてしまいます。

ちなみに両親のいない障害者の夫婦や、年金だけを唯一の収入として生活している障害者は、いったいこれからどうしたら生きていけるのでしょうか。

全くお寒いのが、今の日本の福祉の現状と言わざるを得ません。

これからの福祉を考えていくとき、障害者の当事者運動のレベルの高さや、声の大きさといったことが、 このどん底の福祉を少しでも前向きに変えていける大きな力となりうるものと、私は深く思いをはせ、日々の活動と生活に追われる毎日である。

                       共働作業所わっこ倉升

                       所長   桜井 真一


ちょっと一言

        事務局人間模様

 

「この次の通信はいつでるんですか」など多くの方から大変ありがたい催促の連絡をいただいています。

「早く出してよ」という声。

・・・そうか、けっこう見てくれているんだ。

そしてさらに「楽しみにしているんだから」・・・「最後の文章」・・・!。

どうもこのコーナーだけが際だって、いやこれだけが「楽しみ」なようだ。

先日お会いしたある会員、「いつも楽しみにしていますよ」「いや、他の内容もいいんだが、実にいい」。 ・・・私は何も聞いていないのにこんな会話。 さらにこの人から「これ楽しさに感謝のきもち」とカンパ金をいただいちゃいました。

ありがたい、でもなんか不思議な気持ち。 まあいいか。

ところで、そんな要望に反して今回はお休みです。

なぜなら、あまりおもしろ(いや事実です)すぎて、本人その気になって「吉本興業へ行く」?って騒いでいるんです。

なんなら人権センターに、お笑い部門つくりましょうか。

<近況報告>

人権センターながの理事の日野勝さんが埼玉に引っ越されました。

日野さんに近況報告をお願いしました。

みなさん、お変わりありませんか。
42年間住み慣れた長野を離れて、4月から埼玉県に住所を移しました。
3月31日に定年で退職したのがそのきっかけです。
長野県での教員生活は37年間にわたるものでした。
感慨深いものがありました。

それにしても3月31日は忙しい日でした。
ちょうどこの日は誕生日に当たりました。
60回目の誕生日ということで還暦でもありました。
……赤いちゃんちゃんこを送るかとの子供からの申し出は、やんわりと断りました。
……
午前中県庁で退職辞令をもらい、学校に帰り最後の残務整理をして家に帰り、午後6時過ぎには車に荷物を積んで、埼玉の新しい住居に向かいました。
翌日・翌々日と休日でしたが、意図的に31日のうちに発ちました。

長野県に住んで42年、上田に住んで26年。
そのまま日を過ごせば過ごすほど、立ち去りがたい思いが募ってくることは必定でした。
それがいやで、31日のうちに埼玉に向かったわけです。
それにしても、誕生日、還暦、退職、引っ越しと忙しい日でした。

地理的には全く不案内で戸惑う毎日ですが、何とか女房と二人で新しい生活が始まりました。
還暦になって環境が変わって対応できるか多少の不安はあったのですが、皆さんご存じの「調子の良さ」といえばいいのでしょうか、 高い適応力といえばいいのでしょうか、何とかやっています。  

「人権センターのことなら、いつでも帰ってくるから」という日野先生。

、そんなこと言っていない?
  いいじゃないですか。 言葉に出さなくても、日野先生は「そういう人です」。