同行記 「森小学校給食差別事件」

6月20日、中山英一さんに同行し、千曲市森のKさんのお宅におじゃました。

1950年、森小学校で給食差別事件(ある児童が部落の母親が作ったみそ汁を「きたない」と言って捨ててしまった)がおきた。 当時、林虎雄・長野県知事が現地を訪れ取組を行い、これをきっかけに長野県の「同和教育」がスタートした。

事件の発生後、部落解放同盟長野県連書記長だった中山英一さんは一ヶ月に渡り、現地に泊まり込み、対策を講じたという。 Kさん宅は、当時の支部長宅であり、中山さんが一ヶ月間寝泊まりしていたお宅である。


中山英一さんのもとに、佐久在住の女性Sさんから丁寧な手紙が届いた。 Sさんは、千曲市森の部落出身で、みそ汁給食事件当時、支部長をされていたKさんの娘さんで、現在は佐久在住とのこと。 手紙の内容は、このSさんの「今も森に暮らす99才になる母親(故支部長のお連れ合い)が、当時をなつかしみ中山英一さんと会いたがっており、 時間を作っていただけないか」という内容だった。 達筆で丁寧に書かれた手紙そのものが実に心を打つものだった。


その手紙にこたえ、森を訪れた中山さんを迎えたのは、99才のおばあちゃん、Kさん(息子の妻76才)、手紙の主である娘のSさん、 Sさんの弟で小布施で解放運動に参加するYさんだった。 到着後、中山さんの墓参をしたいという要望で、まず同地区の墓地へ向かった。

自動車で少し山の方へ移動したところに墓地はあったが、99才のおばあちゃんも杖をつきながら、しっかりした足取りでどんどん歩いていかれる。 隣の一段高い所に地域の墓地があり、森の同和地区の墓地はその下にある。 聞けば、住宅近くにあったお墓を地域で協議の上、この場所に移転したという。 やや奥まった位置に、みそ汁給食事件当時の支部長のお墓はあった。 そこで中山さんが、「石碑があったと思うんですが…。 」と言われる。 Sさんも「私も知ってます」と言われるが、付近に見当たらない。 故支部長がなくなったときに、解放運動への功績をたたえ、中山さんが贈った言葉が刻まれた石碑だという。 「部落解放に生涯をささげたK同志を讃う」という言葉だ。 ならばお墓の近くにあるはずだがと見渡すが、その姿が見つからない。 しばらくうろうろとあたりを歩くが結局見つからず、「あるはずなんですが…」と申し訳なさそうにしているSさんとおばあちゃんに、 中山さんは「いや、いいんです、いいんです」と墓地をあとにした。


再び居間に案内された中山さんは、おばあちゃんの生い立ち、もともとの出身地から改めて尋ね始めた。 息子であるYさんも初めて聞く話も多かったようだ。 学校へ行かれず文字を覚えられなかったこと、女中奉公に出てその正直さが認められ財布を預けられるまでになったこと、 若いころの楽しみとして芝居を見に行ったこと、部落差別についていつ知ったのか等々話は進む。

おばあちゃんに続けて、Kさんの生い立ちにも触れていくが、何とも驚くのは中山さんが各地の部落に精通していることである。 親せき関係がどこそこにあるという話の中で地名が数多く出るが、その一つひとつについて、 その部落に多い名字やどこに何があってという話がとどまることなくやりとりされていく。 さすがに県内のすべての部落を何度も訪れた活動家だと思う。

さて、話が森の部落の歴史的な部分に触れていく。 このあたりは、「○○○」(この地をさす差別用語)などと言われていたという。 だが、当時は解放運動もなく、なぜそんな言われ方をするのかだれもわからない。 しかしそんな呼び方で周囲の地域とは一線を画されていた。 ある夏の暑い日、中学生の子どもたちが何人か家の前の道を話しながら帰っていくとき、こんな会話が聞こえてきたという。 「のどかわいたわ、水が飲みたいな。 」「この家でもらって飲んでいけばいいじゃない。 この家の庭に井戸があるよ。 」「やだ、○○○なんて臭くて。 」と。

こんな言葉がとびかう中、部落の母親たちの作ったみそ汁が捨てられたのだ。


おばあちゃんは、「今、こうして家でかわいがってもらって、気楽でやっていられることが一番楽しいことだ。 」という。 「もう100近いんだが、達者の秘けつは何かね。 」と問う中山さんに、「動くことですね。 」と答えるおばあちゃん。 働き者の部落の女性の本領発揮である。 「心配事は。 」と問われると「ないですねー」と。 孫は54人、ひこ孫も12人という。 おばあちゃんが元気なうちにと盛大に開かれた子どもたちのきょうだい会では、大好きなカラオケで「ふたり酒」を歌ったそうである。


みそ汁事件当時のことについては、今後またあらためて聞いていきたいが、当時のことを聞けそうな人についても何人か名前をあげてもらった。 長野県同和教育の出発点として早急に聞き取っておかねばならない。 それほど時間は残されているわけではないだろうと思う。


さて、話も終わりに近づいたころ、Kさんから中山さんに「出身宣言」についての疑問がぶつけられる。 あそこまでさせても、結婚の時にはやっぱり差別を受けるではないかと言う。 「出身宣言っていうのはどうなんでしょう。 」それに対して中山さんが答える。

「いろいろな考え方があるんだと思うんだけどもね、一つはね、自信を持たせることなんです。 世間の人がなんと言おうと、なんと思おうと、世間の口には戸は立たないわけ。 だから世間はどうであれ、まず自分自身に自信を持つことですよ。 人間っていうのはね、はずかしいことは自分から言い出さない。 逃げたり、かくれたり、うそを言うわけ。 反対に自信があることや自慢なことは人から聞かれなくても自分で言うんですよ。 自分は何だ、何者なんだ。 決してはずかしい人間ではない。 恥ずかしいと思う人の方がよっぽど恥ずかしいんです。 」


中山さんは「隣の部屋にとめてもらっていたんですよ。 」となつかしそうに仏間の方を眺める。 もう56年も前のことである。 当時の話をこの場で自分もいっしょに聞かせてもらっていることを不思議に感じる。 この部屋に、一ヶ月間泊めてもらいながら、部落の人たちの話を聞き、差別の実態をつかみ、その願いを引き出し、交渉し、そして組織化していったのだろう。 中山英一さん自身にとっても、ここは自身の部落解放運動の原点の一つであるのだろう。 当時かかわった人たちに囲まれながら、力がわき上がるような感覚を覚えていたのではなかったかと感じる。


さて、新しい墓地に石碑がなかったことについて。 最後の最後に、Kさんが話してくださった。 部落の墓地が住宅近くにあったのを、新しい墓地に移転するとき、一部の部落の人が「あの石碑を持っていくのなら移転を受け入れない」といわれ、 ずいぶん話し合った末、持っていくことができなかったというのだ。 差別の壁は現在も、部落解放の歴史を明らかにしながら生きていくことを部落の人たちに許さない。 結局、石碑はそれを彫った石屋さんに預けられ、その行方は定かではないようだ。 「それはいろいろ大変だったですね。 」と“さらり”と言われる中山さんの胸中に思いはあふれているであろう。


事件当時、中学生だったというSさんの丁寧な手紙をきっかけに実現した今回の訪問だったが、当時、おばあちゃんにとっても、家族にとっても、 そして中山英一さん自身にとっても、同行した私たちにとっても価値ある時間となったと思う。 それは、歴史的な地を訪ね、当時を振り返るだけでなく、現在の一人ひとりの立つ位置を確認するような時間でもあったとのだと思う。 前に進むしかないのである。


      (浅井 誠)