「“いきる”こと、再出発」
―「同和教育」、いまここにあるもの―

NPO法人 人権センターながの理事
中野市豊田中学校教員
島田 一生

前 夜

3年前、癌の末期と告知を受けて入院。 退院後、授業が楽しく、生徒のさまざまな表情に出会うのが楽しみだった。 初めて担当した社会科も、おもしろかった。 しかし、解放子ども会をやっている隣保館に足を向けることは、なかった。 行ったときは、中学校の文化祭で解放子ども会の展示発表を手伝うときと、夏のキャンプのときぐらいだった。 勤務を終えて、隣保館の前を車で通るとき、外で遊んでいる解放子ども会の子どもたちの姿をしばしば見た。 自分のからだが心配だった。 疲れてもいた。 そして、何より、こんな自分の状態で解放子ども会(以下、「子ども会」と表記)の活動にかかわっても、中途半端になってしまうことが嫌だった。 「かかわる以上は、以前のように・・・」と考えていた。 どうやら、退院後の自分を、以前の自分と比べて嘆いていたようだ。

学校で子ども会の子たちと会ってはいたが、子ども会の話はあまりしなかった。 こちらからもしなかったし、彼らからも子ども会の話題は出なかった。 「もと解放子ども会の先生」になっていた。 部落の子たちと部落のことで向き合う者は、だれもいなかった。 私は、その状況をじっと観ていた。 ひとりまたひとりと、子ども会から離れる子たちが出てきていた。 私は、それも観ていた。

昨年11月、癌が再発。 再び5ヶ月間の入院治療と、3ヶ月間の自宅療養。 二学期に学校現場に戻った。 今度は「自律教育」の担任と家庭科の担当と国語。 やはり授業が楽しく、子どもたちと生活するのが楽しかった。 前回退院したときと違っていたのは、死ぬことを、より身近に感じるようになったことだ。

人権教育の話題で同僚と話していたときのことだ。 何でも私が入院中の3学期の職員会で、「子ども会の指導に職員があたっているが、隣保館(人権センター)に行っても、子どもたちは勉強の意欲もなく、出席も悪いので、来年度は指導にいくのをやめたほうがいい」と、一部から意見が出されたらしい。 私には、このような発想はなかった。 私の中で、何かがゴロンと動いた。

学校では、9月末に行われる文化祭の準備に追われていた。 この文化祭では、毎年解放子ども会の展示発表が行われている。 担当の教師が私に「今年はどうなるのですか」と尋ねてきた。 「もと解放子ども会の先生」の私は、「できるかできないか、子どもたちに聞いてみます」と答えた。

学校では、11月の人権教育月間の計画を各学年で作成するようにという係からの指示が出され、そのことを取り上げた職員会があった。

「授業でどう部落問題を扱ったらいいのか。 解放子ども会を取り上げるとしても、今の様子では・・・」私のなかで、ふたたび何かがゴロンと動いた。

私は発言した。 「まず、部落の子を鍛えなければ始まらない。 私がやります。 そして、それを伝えていきますので、それからにしてください」

始 動

いまも解放子ども会にかろうじて参加している2年生の3人にまず声をかけた。 それから、不登校気味になっている1年生に。

「文化祭の展示の準備をやっていく。 これからはおれが行く。 だから集まってくれ。 出ていない3年には、おれから声をかけておく」

彼らの嬉しそうな顔を見ながら、私は「始まった」と感じた。 3年生の3人のうち、1人は、子ども会をやめていた。 他の2人も3年になってからは、子ども会に来ていなかった。 やめていた子も含めて声をかけて、火曜日に集まれと伝えた。 文化祭まで1ヶ月。 「もと解放子ども会の先生」の私は、このぐらいの期間なら、からだがもつと考えていた。

再 出 発

隣保館に行った。 2年のA生、B生、C生と1年のD生はすでに来ていた。 すぐに3年のE生が今年21歳になる兄のRとやってきた。 次に3年のF生が遅れて現れた。 G生は来なかった。

文化祭で何を展示するか、彼らに話し合わせる気はなかった。 畳の部屋に移動し、丸くなって座らせ、ポスター作りを提案した。 中身は、荊冠旗。 この荊冠旗は、彼らが小学生低学年部会だった頃、「とげかんむり」として塗り絵でかいて、旗の意味を説明したものだった。 A生などは、小2のときにみたキリストを主人公にした映画を見て以来、「とげかんむり」を怖がっている。 今の中学生には、もっともなじみのあるポスターだった。

「これでいく、いいな」 みんなうなずいた。

ポスター作りに入る前にしておくことがあった。 1学期中来なかったE生とF生にけりをつけることだった。 私は、2人に来なかった理由を聞いて、しかるつもりだった。 しかったあとで、みんなでポスターに書く言葉を考えるつもりでいた。 二人を私の前に正座させて座らせた。 F生に理由を聞いた。 「野球なんかで忙しくて。 (子ども会に)来てもあまり意味のあるものじゃなかったし・・・」 E生に聞いた。 「バレーとかで忙しくて、出なきゃと思ってもずるずると休んでしまって・・・」実は、私はE生には学校で「何で休んでいるんだ?」と前日に聞いていた。 その時のことばは、「行ってもつまらないし、島田先生もいないし・・・」だった。

正座をしている二人は、うつむいていた。 神妙で悲しい顔だった。 小2の頃出会った2人の生き生きとした解放子ども会での姿が浮かんだ。

私は、「そんな理由で解放子ども会を休んでどうするんだ」としかるつもりで正座した。 だが、私は両手をついて謝っていた。 「おまえたちにとって、意味のない子ども会にしてしまってすまなかった」F生が目を伏せた。 E生の目からぽろぽろと涙が落ちた。 C生の目も赤かった。

「おれは、これからも解放子ども会に来る。 来てお前たちと部落の勉強をする。 今も部落差別はある。 そんななかで、部落のことを学ばないまま、F生とE生を卒業させるわけにはいかない。 高校では何にもやらない。 おれはずっと来るから、お前たちもずっと来い」

〈やっぱり、こうなるんだな。 文字通りの命がけじゃねえか。 〉苦笑した。

「よし、お前たちでポスターのことばを考えろ。 おれは、Rと話をする」

Rと私は、隣の部屋で話した。 大学のクラブ活動のことなど。 Rと話すのも久ぶりだった。 Rの時代には、学校のいい加減な同和教育とたたかった歴史があった。 隣の部屋から、話し合う声と笑い声が聞こえてきた。 「R、前のような子ども会になったな」 「ええ、そうですね」Rが笑った。


ことばが決まったらしい。 行ってみるとみんないい顔をしていた。 ひとりひとりが案を出して、その中からいいものを選んだということだった。 一緒にいた英語教師のアドバイスもあって、「RESTART」 再出発という意味だそうだ。


隣保館の玄関で彼らを見送った。 B生が「今日、にいちゃんがくるかもしれません」と言う。 Rと同い年のSだ。 高校卒業後、働いている。 以前は彼ら高校生たちと月2回高校生の会を開いていた。 懐かしい。

「電話をかけようと思ってたんですけど、電話してどうすんのかっていう思いもあって、かけられませんでした」「先生の病気のことは、だれにも話してないんですけど、Mだけには、話しました。 この前も居酒屋で飲んだとき、M、よく覚えていましたよ。 先生にいい加減に考えるなと怒られた時のこととか、パンツを買ってもらったときのこととか、みんな覚えていましたよ。 心配していました」

Sの言う通り、彼が電話をかけられない思いは私も同じだった。 電話して何になるのか。 何かをやるわけでもないのに。

この夜、SとB生に見送られて帰った。

家に帰ると、メールが来ていた。 F生の母親からだった。

       こんばんは。 ご無沙汰していてすみません。 入院中も
       お見舞いにも行かず、ごめんなさい。 そして今日のこと・・・
       土下座しなければならないのは私達親の方なのに。 恥ずかしくて
       直接お詫びすることもできません。
       先生はすさまじい治療でも頑張っていたのに子どもの管理もできず、
       先生が帰ってくるのをしっかり待たせておくこともできず
       ちゃらんぽらんにしておいて なんて謝っていいのかわかりません。
       ショウも私達もこれからは前のようにしっかりがんばります。
       とりあえずメールでごめんなさい。

 私は、帰ってきた。

た た か い の 場

この日を境にして、いろいろな人との出会いがあった。 2回目の子ども会では、E生の母親が「先生、また会えてよかった」と涙を流して迎えてくれた。 今年生まれた子どものことを聞くと「ダウン症でね。 子どもたちにはもう話してあって。 今のところは、成長は同じで。 うちの人なんか、もうつきっきりでかわいがっていて、子どもたちは、『私達はあんなにかわいがられたっけなあ』っていうくらい・・・」私は、「うん、うん」と頷きながら聞いた。

小学生H生の母親は、保護者会の当番で、大量の食事を隣保館で作ってくれていた。 最初に言われた言葉が「おかえりなさい」 これにはまいった。

Sはまたやってきた。 そして中学時代の「たたかい」のことを話題にした。 Sの話を聞きながら、大事なことに気がついた。 おれたちのたたかいの検証は、まだ終わっていないということだった。 Sは、確かめたがっている。 求めてきたもの、そして今を。

たたかいの場所は、いまここにある。



そ れ か ら

○解放子ども会の子どもたちの思いを受けとるとき。

○子どもたちを前に親が語るとき。

○教え子たちからの手紙・ことばを前に。

お わ り に

○毎日の暮らしのなかで