第59回 全国人権・同和教育研究大会 参加報告

第59回 全国人権・同和教育研究大会 参加報告

浅井 誠

1.生きて帰って来ました

いきなり帰り道の話からです。

雨まじりの北陸自動車道を一路長野に向かってひた走っていた(走らせていたのは高橋事務局長)私たち。 あれはどのあたりだったか、追い越し車線を快調に飛ばしていると(飛ばしていたのは高橋事務局長)、前方からやけにまぶしい車のライトが…。 「あれ?あの車、こっちの車線走ってない?」と助手席の浅井が言い終わらないうちに、「ウォオオオ~ッ!!」という叫び声。 あやうくハンドルを切ってよけた所へ(よけたのは高橋事務局長)、中央分離帯に沿って一台の軽トラックが逆走してすれ違っていったのです。 「なんなんだ!?今の車は!?なんでこっち側を走ってるんだ!?おっかねぇー、ぶつかるかと思ったぁ~」と高橋さん。 いやいや驚きました。 本当に逆走している車ってあるんですねー。 危なかった!

この暗く見通しの悪い中、よくここまでぶつからないで走ってきたもんだ。 あの後、どうなっちゃうんだろう。 大きな事故になっちゃうんじゃないかと、どきどきしながらいろいろ思いを巡らしてしばらく行くと、いやぁー、車が2台ほどあっち向いたりこっち向いたりして止まっている。 これは、もう間違いない。 あの逆走軽トラックをよけようとして事故が起きたんだと確信しました。 とにかく動揺を抑え、次のパーキングエリアで休みつつ情報収集をしようということになりました。 確かに、道路情報では、ちょうど今走ってきた区間に事故情報が出ていますが、詳しいことは結局そこでは分かりませんでした。

長野に戻って、全同教の話題が出るたびに、その話をしていたのですが、ある日、浅井が「毎日新聞」を見ていると、 認知症高齢者の高速道路での逆走がちょこちょこ起きているという特集記事が出ていました。 逆走遭遇経験に誘われ、記事を読んでみると、ありました。 あー、これだったんだとこの時初めてわかりました。 11月24日にも北陸自動車道で、認知症高齢者の逆走で事故が発生したと記事にはあります。 幸い大きなけが人や、死者は出なかったようです。

いや、本当に危なかった。 下手をすると、今頃あの世へ旅立ってしまっていたかもしれません。 しかも高橋さんと二人でなんて、勘弁して~!生きて帰って来られて、本当に良かったと思います。

ところで、件の記事、要するに高齢者の自動車免許をどう考えるかというテーマでもありましたが、どう考えるべきなんでしょうね。 人権センターですからそんなことも考えてみなければとも思いますが、ちょっと経験が生々しくて軽々には論じられそうもありません。

2.今は昔、初めての全同教大会

 おまけの話みたいなことで始めた報告ですが、今度は15年ほどさかのぼって、初めて全同教大会に参加した徳島への旅の話をさせてください。

当時、全同教大会と言えば、同和教育推進教員の専売特許みたいなものでした。 同和教育推進教員、ご存知ですか?すでに懐かしい響きさえ漂ってしまう同和教育推進教員ですが、私もそのいわゆる同推教員になって初めて全同教大会に参加しました。 全国(というより西日本といった方が当たっているかもしれません。 というより、参加するまではそう思っていました。 同和教育は関西が主流だと。 )の同和教育の状況を知る場として、また長野県では大事なものだと公的に認知されてきながらも、実際には余分な仕事的な感じもあって、 学校の中では何となく肩身の狭い思いをしている人たちもいたらしい同推教員が、 こんなに多くの教員が熱っぽく語り合っているのかと勇気をもらう場としても大切なものだったろうと思います。 一方で雰囲気としては、年一回の同推教員の慰安旅行みたいな感じになってしまっている地域もあったと思います。 せっかく遠くまで行くんだから周辺の観光もセットでという感じでしょうか。

私はと言えば、たまたま、本当にたまたま同じ学校に島田一生という同推教員がいたこともあって、そういう雰囲気の全同教大会参加には幸か不幸か一度もならなかった。 初めて参加した全同教徳島大会の時からそうでした。

あの頃、島田さんの教え子だった出身教師のSが結婚差別にぶつかって苦しんでいました。 島田さんと面識のあった東京の申谷雄二先生を通じて、彼を兵庫の出身教師西田秀秋先生に会わせるということになっていました。 神戸の都市部落をたった一人で組織化した偉大な先達です。 ずいぶん後になってS自身に言われたことですが、なんで全然知らない浅井までがいっしょに行かないといけないのかという感じだったようです。 それでも前々日の夜行列車に島田さん、S、浅井の三人で乗り込みました。 結婚差別を受けている出身教師という話は聞いていましたが、私自身はその重さを十分感じることもなく脳天気な旅立ちだったかもしれません。

さてとりあえず翌朝、大阪に着くわけですが、このあたりその後の大会参加とごっちゃになって記憶があやふやになっていることに、こうして書いていて気づきました。 大阪についてまず「リバティ大阪」を見学しようとしたと思うのですが、そういえばちょうど休館日で見学できなかったようにも思うし、 たぶんその後のことですが見学したという記憶もある。 それから、奈良の柏原で西光寺周辺を歩いたのはこの時だったか、別の時だったか…。 そんなことは記憶をたどって別の機会に回すとして、もう神戸に着いたことにしてしまいましょう。

神戸の安宿の一室。 西田先生を少し待たせるような格好になってしまったその一室の奥の窓ぎわで、やや不機嫌そうに先生は座っておられました。 島田さんとSは、ならんで西田先生の前に、私はその後ろに正座をしました。 結婚差別のいきさつやらS自身の思い、今している同和教育のこと、Sの中学校時代の担任としての島田さんの同和教育のことなどが話されていきました。 一通り話を聞き終えた西田先生が、その年の福岡全研(部落解放研究全国集会)全体会場で発表した島田さんのレポートをポイッと投げ捨てて、 「こんなことをやっているから部落のもんがろくなことにならんのや。 こいつがこんなだらしない部落の男になったのは、島田、お前のせいだ。 」と静かに、しかし厳しく言いました。

転任した須坂の井上小学校で同推教員の島田さんにあって以来、いろんな事を教わり、同和教育においてこの人の言うことは間違いがない、 この人の話は信じられると思ってきた人が目の前で強烈に否定されている。 ああ世の中には、島田さんにここまで言えてしまう人がいたのか、こんな世界があったのかと愕然としました。 今思えば、あれ以来、島田さんの背中は追えども追えども遠ざかっていったように思います。 まさに転機となる出会いだったろうと思います。 そ、それにしても足がしびれて…立てない!!西田先生が帰られるというので、下まで送っていくのに、 島田さんとSは何とか立ち上がって行ったのに、ついに浅井は立てず見送りも出来なかったのです。

その夜は、申谷さんを中心とする東京のグループ、神戸で活動する西田先生の教えを受けた人たちのグループと一緒に数時間寝て、 翌朝、車に同乗させてもらい、明石からフェリーで四国へ渡りました。

前の方にも書きましたが、全同教大会でまず驚くのは参加者の多さです。 約3万人もの人たちが同和教育について語り合うために毎年毎年集まっているわけです。 何しろ開催地では、資料の入った同じ紙袋を持った人たちが大勢歩いているのを目にして驚きます。 各都府県の同和教育研究協議会から出された代表者のレポート報告を受けて、激しいやりとりがされていきます。

しかし、私自身が初めて参加したときに驚いたのは、それだけではありませんでした。 島田さん、Sとともに同行させてもらった申谷さんたちのグループは、まず開会前日に仲間の報告するレポートについて話し合い、 その分科会でどんな討議を作っていくのか、誰がそこへ応援に行くのかを検討します。 そして、場所を変えて飲む。 翌日の夜、また会議室を用意してそこに集まり交流会と称して、その日の参加分科会の様子を報告し合ったり、翌日の仲間のレポートについて検討します。 そして、場所を変えて飲む。 とにかく、寝不足と闘いながらの数日間は、宿と会場、交流会場を行き来しているだけでした。 そこで元気をもらって帰るということをよくいいますが、そう簡単なことでもなく、厳しくしんどい、 でも自分を奮い立たせてくれるような場が全同教大会につながるそんな時間でした。

さて、徳島全同教大会の分科会総括討論の中で、Sは自分の経験した結婚差別について語り、力強く乗り越えて行くことを宣言し会場から拍手を受けます。 私もその話を聞きながら涙をこらえていました。 終了後はSに何か声をかけたくて「よかったよ。 」などと言った覚えもあります。 しかし、その夜の交流会では、そのSの発言について申谷さんから「Sのことは後で怒らなくちゃいけない。 」と言われます。 そう言われてみれば、形を整えた上手な話しぶりで心にもないことを言ってしまったのだったかもしれません。 でも当時の自分には、いや今でもそうかもしれませんが、どういうことなのかよく分かっていなかったと思います。 今でも私たちの中で時々話題になるその時のことについては、いずれS自身が正しく総括して教えてくれるのではないかと思っています。

3.さて、第59回全国人権・同和教育研究大会に出発

2008年11月23,24日の二日間、第59回全国人権・同和教育研究大会は石川県金沢市とその周辺で開かれました。 石川県で開催されるのは初めてのことです。 開催地に決まると大変なのは当然運営上のことですが、もう一つ各分科分散会場に地元報告を準備することです。 石川県同教が用意した報告は、開会全体会の特別報告を含めて全部で23本。 分散会場が31会場ですから若干少ないものの、今長野県でこれだけの数のレポートを一定の水準で報告できるかと言ったら、おそらく無理じゃないでしょうか。 なんて、人ごとみたいに言ってる場合じゃありませんね。 みなさん、実践しましょう、書きましょう。 検討し合いましょう。

さて、前日、石川のレポート検討をするので間に合うように来いというお達しでしたが、それぞれこっちで用事があり、まず浅井とSが先発し、 翌日高橋事務局長と島田さんが来て、Sと島田さんが先に帰り、浅井と高橋事務局長が残るという変則的な参加となりました。 で、冒頭紹介したような帰り道となるわけです。

学校を終えてからの出発となり、結局レポート検討には間に合いませんでしたが、場所を変えて飲んでいる所に合流しました。 場所は北陸新聞社近くの悟林。 そこで今回の分科会二日目に新潟からレポートを報告する五十嵐美代子さんに会いました。 結成15年、新潟県同教からの初めて部落の子にかかわる報告です。 部落出身を告げようとした生徒にとって自分が大切な存在なのかどうか、そうでなければとても自分からは出身の話はできないと五十嵐さんは考えます。 しかし三年生も夏休みとなり、残された時間を考える中で五十嵐さんは、まず自分にとってその生徒が大切な存在であることを心を込めて伝えながら、 信頼関係を築いていこうと決めます。 誠実な人柄そのままの誠実な報告だったと思います。

4.われわれの任務

さて今回の全同教への旅では、われわれに重大な任務が課されていました。 それは、ビデオ&DVD『英ちゃん』を売ること。 東京都同教の本売り場の一角に置いてもらって「中山英一さんのドキュメンタリービデオができました。 ぜひご覧くださーい。 」なんて言ってもどうしてなかなか…。 結局、一日目終了後の交流会で申谷先生に声をかけてもらって、仲間内で買ってもらったのが一番大口でした。 お世話かけます。 人権センターながの会員のみなさん、まわりの人にどんどん勧めて広げていきましょう。 鑑賞後どんな話し合いができるかという案も差し上げます。 ぜひ、みんなで見て、みんなで考えましょう。 おっと、脱線してしまいました。

5.全体から分科会へ

 開会全体会は、石川県産業展示館でおこなわれました。 一日目の朝から開会行事が始まりますが、まあ大体各県同教や解放出版社が集まる書籍売り場にいて情報交換をしたり、全体会場をのぞいて雰囲気を確かめたり、 知っている顔を探したり、うろちょろしていることが多いのですが、前段でも書いたようにこの日は、東京の本売り場の一角で小さい声でひっそりとビデオ販売をしていました。

午後から分科会分散会に参加者は大移動をします。 午後の分散会では、東京都立南葛飾高校定時制などで朝鮮語を教える李春花さんの「朝鮮語の教師として自分に向き合うこと」という報告を聞きました。 在日朝鮮人として、朝鮮語の教師として、定時制高校で必修科目として朝鮮語を教える意味について語っていました。 すぐに役立つというような受け止めがされにくく、なじみの薄い朝鮮語が、生徒たちに嫌がられてしまえば、そこのいる朝鮮人生徒を傷つけることになってしまう。 そういう中で、自分にとって朝鮮語が「朝鮮人の自分」から逃げ出さないためにあると考え、日本人にも外国にルーツを持つ後輩たちにも、自分を大切に、 人を大切に考えるために朝鮮語の授業が必要だと考えてがんばっている姿に心打たれました。 もっと身近でなければならないはずの朝鮮語について、本当に何も知らない自分にも気づかされました。 知らない、関心を持たないということで、人を傷つけ差別してきてしまったことがきっとあったのだろうと思います。

また、部落差別の歴史や差別の現実を同和教育として授業で扱うときに、 自分自身がこの春花さんのような決意と覚悟をもって伝えようとしてきたのかが問われているのだと感じました。

6.終わりに

同推教員の制度がなくなってしまった今、全同教大会で長野の人に会うこともほとんどなくなってしまいました。 以前は、どこの分科会に行っても、「あ、あの人長野の人だ」という感じですれ違ったものでしたが、そんなこともほとんどありません。 私たち人権センターの仲間の中でもなかなか参加できない状況が続いています。 途中入れ替わりながらも久々にみんなで行った全同教という感じです。 仕事をやりくりして遠くまで出かけていくのは大変だけれども、やはりあそこへ行って、各地の報告や討論を聞きながら刺激を受け、新たな一歩を踏み出すことが必要だと思います。 第60回は、水平社発祥の地奈良での開催になるようです。 いっしょに出かけて、自分たちの同和教育を見返し、新しい一歩を踏み出してみませんか。