部落史概要
〔前近代〕
前近代については、塚田正朋『近世部落史の研究-信州の具体像-』、 尾崎行也『信州被差別部落の史的研究』をはじめとする研究がある。 また、『長野県史通史編』をはじめとする自治体史などにも記述がある。 くわしくはそれらを参照されたい。 要点だけ述べておけば、近世以前については目下ほとんどわからない。 ただ、善光寺や諏訪社などの門前に「非人」(中世の被差別民)が居住していたものと推測されている。 また中世の城や市場とのつながりが想定されている集落もある。 近世初頭には、松本・松代・上田藩などが「かわた」「かわや」を城下町へ移住させ、頭(かしら)を通じて統制している。 一方、宿場や口留(くちどめ)番所など交通の要衛に移住させられたり、代官所の設置にともなって移住させられたものもある。 このほか、中後期に村から招請されて、主として村の警備役として移住した事例も相当数ある。 領主から命じられて皮革製品を上納したり、城の掃除、犯罪人の捜査、処刑、牢番などに従事することもあったが、最も日常的な役目は村や町の警備役だった。 その警備担当区域を旦那場と呼び(そこで死牛馬が生じたときには、その処理も行った)、旦那場から一把稲をはじめとする反対給付を受け取った。 こうした役目のほかに、農業や草履作りなどの細工業、医薬業、芸能などに従事して生計をささえた。 なかには渡守や堤防の見張り役などに従事したものもある。 当初は「かわた」「かわや」、あるいは「ちょうり」などと呼ばれたが、1650~1700年頃から徐々に「えた」と呼ばれるようになった。 そのころから五人組帳や宗門改め帳が別帳にされたり、取締り令が出されるなど、次第に差別が強化されていった(それにつれて、差別戒名も多数みられるようになる)。 しかし、後期にはそうした差別に反対するたたかいも各地で取り組まれた。
〔融和政策・運動〕
1903年(明治36年)の〈大日本同胞融和会〉発足を受けて、 本県でも07年に北佐久郡北大井村(現小諸市)の〈青年同志会〉を最初に、その後県の指導により〈矯風報徳社〉、南佐久郡に〈大正会〉等が結成された。 これらはいずれも、ことば遣いを改める、博奕をなくし、喧嘩や暴力をやめ風紀をよくするなどの取組みに終始した。 一方、行政の改善施策は部落の分散、住居、衛生、交際、警察の取り締まり等、環境改善や恩恵的・治安対策的施策であった。 18年(大正7)の米騒動には本県においても部落大衆の参加がみられ、市民大会や米の安売り要求によって、大衆運動の力を初めて知った部落大衆は、 これをきっかけに、自分たちの力で解放をかちとらなくてはならないという自覚を持ち始めた。 これに対処するため、20年10月、信濃同仁会が上田市で発会式を行ない本県最大の融和団体として発足(本部・上田市)。 上田市を中心に、小県から北信地方に組織化が進んだ。 構成員は社会階層から見ると部落の上層、地域の有力者等が目立つ。 その後、長野県水平社の創立とともに、水平社運動と対立しながら、吹き荒れた戦時色のなか、 県の融和事業十カ年計画遂行の名により37年(昭和12年)4月長野県同仁会と改称し(本部県庁社会課)、41年同和奉公会長野県本部となり実質的な運動を停止した。
〔水平社運動〕
1922年(大正11年)の全国水平社創立は、部落大衆に大きな波紋を巻き起こした。 創立大会には県内で最も早くから自覚的な解放運動が起った埴科郡雨宮村(現更埴市)の小山薫が参加したが、第2回大会には小山薫、朝倉重吉(小諸)ら20人以上の参加をみた。 県水平社はこうした動きのなかで24年4月23日、小諸町で創立大会を開催。 関東水平社から村岡静五郎、平野小剣、竹内喜春、辻本晴一、中央から米田富らの応援を受けた。 南・北佐久郡、小県郡をはじめとして県内各地に次々と水平社が組織され差別糾弾闘争を展開した。 同時に農民運動、労働運動との連携も見られるようになる。 26年秋には県水平社本部も設置され、闘いの拠点となった。 同年には臼田警察署差別糾弾闘争を、警察権力を相手に20日間闘いぬいた。 これは県水平社の実力をみせつけるとともに、差別をする者はたとえ警察といえども絶対に許さないとする姿勢を鮮明に打ち出した闘いであった。
本県の差別糾弾闘争で特徴的なものは、山林の入会権をめぐる闘争である。 28年(昭和3年)には小県郡西塩田東前山(現上田市)で、30年には南佐久郡平賀村瀬戸(現佐久市)で起きているが、いずれも部落側が勝利している。 とくに高橋市次郎が指導した瀬戸区有林闘争は県内最大の闘争であった。 31年南佐久郡岸野村沓沢で起きた沓沢区有林入会権差別糾弾闘争は、区側代表との交渉の際に暴力をふるったとして9人の幹部が検挙され、 裁判の結果5人が懲役刑という不当な判決を受け投獄された。 幹部指導者を奪われた県水平社の打撃は大きく、満州事変以後社会運動全体に対する弾圧が強まったこともあり、運動は徐々に衰退していった。
〔戦後の解放運動〕
戦争によって中断させられていた解放運動の再建をめざした部落解放全国委員会の結成を受けて、翌1947年(昭和22年)、長野県連結成準備会を上田市で開催。 ちょうどこのころ二つの大きな差別事件が相次いで起きた。 一つは小県郡祢津村で起きた村祭りと入会権から排除された差別事件であり、もう一つは同郡和田村で起きた結婚差別による心中未遂事件である。 戦後の民主化のなかでも差別事件がなくならないことに憤激した部落大衆のたち上がりのなかから、部落解放全国委員会長野県支部連合会は結成された。 48年5月2日長野市本派本願寺別院で開催された創立大会には県内各地から338人の代表が参加。 平均年齢33歳、16歳の少年も参加した。 初代委員長には朝倉重吉を選出。 戦前の水平社、信濃同仁会の幹部の大同団結がはかられた。 創立された長野県連は翌49年松本治一郎不当追放取り消し要求闘争と資金カンパ活動を組織をあげて取り組み、連帯の力を示した。 闘争カンパは8万9000余円、署名は3万5000人に達した。 そうした闘いの積み上げを基礎に、県連では53年5月に機関紙『解放情報』の発行を始めた。 県内では依然として差別事件が多発し、51年には県・県教委が初めての啓発資料『開けゆく日本』を発行し差別の不当性を訴えた。 59、60年には相次いで部落差別による自殺事件が起きた。 郷里を遠く離れ、愛媛県新居浜の青年と結婚した南沢恵美子は、身元調査を行われ、すさまじい差別を受け、悲痛な遺書を残し自殺した。 こうした差別の壁を打ち破るために県連は、58年から〈高校生の集い〉を開催し現在に受け継がれている。 64年には県連独自で部落解放研究集会を開催し、行政に対して具体的な提言を行い続けている(96年に実行委員会へ引き継ぐ)。 また、本県での国策樹立請願運動の一つのピ-クは61年であった。 県内各部落をまわり請願行動への参加を訴えた。 県・県議会への請願は、同時に全国的な運動の一環でもあり、請願行動東日本隊の出発ともなった。 68年には須坂市二睦で入会権差別事件が起き、県連では他の民主団体と県民共闘会議を結成し、4年を費やす長い闘いを続けて勝利した。 県連本部の書記は山深い地区にも自転車でオルグに駆けつけ、ひとつひとつの部落をたずね歩いた。 その苦労は並大抵のことではなかった。
この頃、結婚や教育現場における差別事件が相次ぎ、一方狭山闘争の高揚の中で、 70年から各地に解放子ども会が結成される(それまでにも自主的な子ども会活動があったが、現在84の解放子ども会がある)。
島崎藤村の小説『破戒』は、県内の部落で取材して書かれたものであり、県内の解放運動はいつも全国的な問題として取り上げられた。 48年(昭和23)信濃毎日新聞は社説で「部落解放を忘れるな」を取上げた。 マスコミの取組みとしては、全国的にみてもかなり早いことが注目される。 56年には朝日新聞が長野版で、<生きている差別〉のキャンペーンを行ったほか、74年には『ルポ・現代の被差別部落』を出版した。 また、作家柴田道子は部落に入り、71年「被差別部落の伝承と生活-信州の部落・古老聞き書き」を発刊した。 77年には臼井吉見の小説「事故のてんまつ」が発表され、部落が〈観光コース〉に入ったチラシが出されるという悪質な差別事件が起きた。 こうした中で、県内でも「部落地名総鑑」事件はじめ、続発する差別事件に対する差別糾弾闘争、市町村への県内行動(行政交渉、支部オルグ等)、全国に先駆け「県差別戒名調査委員会」を設置し差別戒(法)名等の調査などを行った。 一方、76年には部落解放県民共闘会議の結成、80年信州農村開発史研究所設立、82年県解放教育研究会結成、85年基本法制定県実行委員会結成、88年世界人権宣言長野県実行委員会結成等の運動を展開した。 さらに、部落の文化遺産調査、部落史調査委員会による活動など文化・歴史の調査・研究活動も行っている。
〔教育〕
1872年(明治5年)政府は学制を発布した。 しかし部落の子どもたちは差別・貧困により、ほとんど学校へ行けなかった。 また、村役人が部落の子どもを学校へ出さないよう説得して歩いた村もあった。 1878年(明治11年)上水内郡のある部落の代表は、長野県権令(県知事)に〈就学嘆願書〉を提出するという行動を起こした。 しかし、これが実現したのは86年のことである(それも部落の子どもだけ別の学校)。 こうして部落児童が公教育から締め出されていたなかで、80年北佐久郡のある部落では、苦しい生活のなか〈惟善(いぜん)学校〉(旧えた頭が自宅を開放した)という独自の学校を設置した。 一方、部落の児童が本校から排除され、部落のなかにある分教場にいるという差別に対し、それを撤廃させるなどの実践をした教員、保科百助、伴野文太郎、赤羽王郎等の残した業績は大きく評価されている。 戦後の1950年(昭和25年)4月に起きた森小学校給食差別事件が契機となり、「同和教育」がはじまった。 翌51年、県教委は啓発資料『開けゆく日本』を発行。 53年相次いで起きた学校内の差別事件をきっかけに、長野県同和教育連絡会議(のちに信濃教育会など関係団体が加わって現在の長野県同和教育推進協議会となる。 副読本『あけぼの』等を発行)が発足し、教育・行政・運動体が一体となって「同和教育」を推進する体制が生まれた。 56年に高校生に対する奨学金制度を県単で創設。 次いで「同和教育」青年学級を県内2地区に指定。 58年には部落解放モデル地区指定、研究指定校制度を創設し、地域ぐるみの「同和教育」を実践した。 しかし、このころ結婚差別等によって自殺する痛ましい事件が相次いで起きたことから、差別をはねのけ、たくましく生きぬくことを願っての〈出身指導〉が実践された。 70年〈同和教育の基本方針〉(74年補完)が県教委によって策定された。 また同年には解放子ども会も創設。 4年後には同和教育推進教員が配置され、以後その拡大がはかられてきた。
〔戦後の行政〕
1947年、社会党の林虎雄が知事に当選した。 林は戦前から朝倉重吉たちと共に農民運動、労働運動に挺身し、水平運動にも連帯して闘ってきた。 このことが、戦後の解放運動に有利に働き、積極的な施策が展開された。 部落解放全国委員会長野県連準備会の働きかけにより、林知事は当選直後に長野県振興委員会を設置し、直ちに部落問題特別委員会を発足。 県として方策を諮問し、翌48年には「部落問題対策の答申」が出された。 この中で「部落の解放なくして日本社会の民主化なく、日本社会の民主化なくして部落の解放はない」との基本認識のもと、「経済生活の安定」、青年層による解放運動の活性化等を提起している。 これを受け、規程で長野県部落解放委員会(会長・林知事)に発展。 52年には知事の諮問機間として部落解放審議会が条例で設置され、実質的な解放行政が始められた。 行政機構は、当初民生部厚生課が担当したが、71年には社会部厚生課内に同和対策室を新設。 さらに73年に同和対策課として独立し、現在に至っている。 この間、50年の農業用機械器具無償貸付制度をはじめとして、部落解放更生資金貸付、部落環境改善補助、地方改善地域における生徒に対する奨学金交付(1967年廃止後、教育委員会に移管)等の諸制度が創設された。 69年の「同和対策事業特別措置法」制定後は、各市町村においても行政機構等の整備をはかり、とくに「同対法」期限の後半頃から対策事業が積極的に推進されてきた。 96年県は「長野県人権教育のための国連10年推進本部」を設置。 「同対法」はその後いくつかの名称を変え2003年度で失効した。 その際「差別の実態に即し、今までにも増して一般対策において施策を実施」する方向が出された。
(文・高橋典男)