第67回全国人権・同和教育研究大会(長野大会)の成功に向けて(意義について)

第67回全国人権・同和教育研究大会は、長野県での初開催となります。本県の部落は典型的な少数散在型で、部落数は300余と言われます。5,6戸から10数戸の部落が圧倒的に多く、小さな部落は2,3戸という所もあります。ひとつの学校で部落の児童生徒が一人という状況もあるなかで、厳しい差別と向き合いながら、同和教育は進められてきました。

戦後長野県の同和教育のスタートは、1950年に起きた小学校での給食にかかわる差別事件が契機となりました。ある児童が、部落の母親が作った味噌汁を「きたない」と言って捨て、それを部落の児童に拭かせたという事件です。部落解放全国委員会長野県連合会は、これを重大に受け止めて運動を展開し、県行政・教育においても指導者の育成や啓発資料の作成が始まりました。けれども、1950年代から70年代には部落の若者の尊い命が次々に差別によって奪われました。小中学校での差別事件や教師の差別発言が続発し、教育の質は厳しく問われ続けます。

ある地域では修学旅行に行かない部落の生徒がいました。家庭訪問をした教師はそこで初めて、修学旅行に「行かない」のではなく、「行けない」現実を知ります。そして、「この現実を何とかしなければ」という教師と、「なにがあっても、子どもの命だけは奪われてたまるか」という親たちや解放運動に取り組む人たちの切実な願いが結びつき、自主的な同和教育が始められました。職員会でも真摯な議論が交わされました。自分たちに何ができるのか、心がまえの道徳的同和教育ではどうにもならないのではないか、部落の児童生徒たちにどのような力をつけていけばいいのか、どのような展望をつかみとらせていくのかなどの議論は現在にも通じるものです。

「同和対策事業特別措置法」以後、県内各部落には解放子ども会が次々に組織されました。同和教育推進教員となった教師たちはそこで活動を展開していき、学校・学級では「出身指導」が行われていきました。最盛期には、県内86の解放子ども会に97名の同和教育推進教員(同推教員)が配置されています。親や子どもたちとって同推教員は、「おらほの先生」(おれらの側の先生)です。親たちも教師たちも、確実に変わっていく、変えていく手応えを実感していました。唇をふるわせ、自分の心臓の鼓動を聞きながら出身を名のった子は、これで大丈夫だと自分の第一歩に自信をもちました。手応えや自信は「輝き」でした。戦後早々に始められ、取り組まれた長野県同和教育の実績は全国的にも高く評価され注目されてきました。

今回初めての開催自体に大きな意義があるのはもちろんですが、めざすものは長野県の人権・同和教育の再スタートです。長野県方式による同和教育推進教員制度はすでになく、県内の解放子ども会もその数を減らしています。かつて「出身指導」が行われた学校現場では、部落問題が取りあげられることはあっても、教師がひとりの部落の子と向き合っていく実践はほとんどなされなくなりました。

いま、子どもたちは、悪意と敵意に満ちた陰湿な差別書き込みがインターネット上に氾濫し、地域・個人を特定した情報がひとり歩きするこの時代を生きています。人権・同和教育はより強力に推し進められなければなりません。また、ひとりの子にかかわりきることで見えてくる差別の現実から深く学び、教師自身の変革とともに、差別に抗していく「ちから」を子どもたち自らが有していく同和教育実践の核心は、同和問題だけに限定されるはずはなく、すべての人権課題に通底することは言うまでもありません。

再スタートは、いままでをふり返り、見返すことから始まります。

「先生、私もいつか差別を受けるの?」「この差別をなくせることができるんか?」という子どもたちの問いに、私たちはこたえ切れていないのではないでしょうか。そして、「部落とは何か」という根底的な問いかけに対し、しっかりと差し出せるものを私たちはつかんできたのでしょうか。法や制度がなくなったという程度で、消え消えになっていく実践とはいったい何だったのでしょうか。これらの「問われているもの」に責任をもってこたえていかなければなりません。

長野県には、これまでの同和教育の歴史があります。歴史とは人です。状況のなかでの人と人のつながりです。県内各地の解放子ども会で実践した多くの同和教育推進教員経験者がいます。そして何よりも、さらに多くの各解放子ども会で活動した子どもたちが、いま若人として、成年として、親として暮らしているのです。もう一度つながる、もう一度出会い直していくことが再スタートの位置であり、そこから先の一歩は、若い世代にも引き継がれていかなければなりません。長野県の同和教育を切り拓いてきた先人たちが伝え続けてきたこと、それは「とにかく部落へ入れ」「部落から学べ」=「差別の現実から深く学べ」という言葉です。この箴言が具現されていく今大会をめざしています。

先述の戦後同和教育の契機となった差別事件において、現地に泊まり込んで陣頭指揮をとったのは、当時県連書記長であった故中山英一さんです。「差別されている者の立場に徹底的に立ち続ける」こと。中山さんが自らの行動で示し、語り続けた思想です。長野県での大会開催は、運動と教育に生涯を賭けた中山英一さんの悲願でもありました。その願いを2015年11月に実現し、あの「輝き」を確かなものにしていく再スタートです。

2015年は「同和対策審議会答申」50周年の年でもあります。

第67回全国人権・同和教育研究大会が長野県で開かれることは、まさに願求禮讃です。

信州発! そのあとに続くすべての世代のために。


上記の文章をこちらからダウンロードできます。

第67回全国人権・同和教育研究大会(長野大会)の成功に向けて(意義について)

(PDFファイル/82.3 kB)